自作小説

【第1部第2章38節】Crisis Chronicles

 「よし、ここまで来たら、あとは手段の問題ね」

 「厚い魔晶石を割るのは現実的じゃないから、鼻か口か目か耳か、外殻の薄い頭部を攻めるわよ。」

 クレイズはユリアの提案に頷き、竜の背を駆け上がっていった。

 改めて、足裏に整列する鱗や魔晶石の精緻な美しさに感嘆する。

 自然界から濃縮/醸造された一滴の輝きがそこには在った。

 この聖域に最後までとり残された古龍は、最早その存在すらも忘れ去られ、廃墟の中で朽ちていく絵画を連想させる。

 観客が訪れることはなく、意義や存在価値すら失くしかけた旧世代の遺物。

 嘗ての栄華は既に過去の残滓へと成り果て、座してただ最後の刻を待ち続ける定(さだ)め。

 そのような存在を間近で体感しているだけで、自身の中に壮大なパノラマが展開してゆくように想えた。

 これが相対する敵としてではなく、僅かでも距離を空けて眺めているほどの関係性であったのなら、どれほど良かった事か。

 視界を覆いつくす龍鱗の美しさに後ろ髪を惹かれるが、今はやるべきことは、ただ一つだけに絞られていた。

 徒(いたずら)にその稀有(けう)な命を奪うことはしない。ただ、一時的にでもやり過ごせばいい。

 紅髪の少女は竜の背から生えた鰭(ひれ)を躱しながら突き進み、首裏へ至ろうとしたとき――――ふと、脳裏に違和感を感じた。

 それはある種の既視感(デジャヴ)にも似た、第六感に裏打ちされた脳内パルス。

 後頭部から流れ落ちた冷や水が背筋を伝うような、ゾワリとした不快感が全身へと伝播する。

 同時に意識が自身の周囲360度方向へと向けられ、死角に於いてすら聴覚と触覚が危機判定に要する情報を補完する。

 徐々に自身の体感速度が鈍化し、周囲の景観は彩を喪ってゆく。

 思考は冴え渡り、次にどのような行動を採るべきか、その解が明確に導き出される。 

 運動野からの電気信号が体性神経に伝わると同時、ユリアの鬼気迫る声と高い切断音が響き渡った。

 「危ないっ!」

 寸前のところで、致命の一手を躱す。

 だが、火が付いたような痛みに伴って、頬から一筋の血が滴り落ちる。

 被ったダメージを顧みる余裕はない。すぐさま全知覚を用いて、眼前の脅威判定を行う。

 目に入るその姿に、思わず苦笑いが漏れる。生理的不快感を誘発する色合いと磨き上げられた金属質な表層。

 ――それは、鋏(はさみ)と形容されるものだった。

 首裏の影に潜み、奇襲を仕掛けてきたのは大型の黒い蠍(さそり)。

 人一人分の大きさを誇る体躯は、砂漠地帯に群れで生息するカタパルト・スコーピオンに近似するが、それ以外の外見は大きく異なっていた。

 アーカイヴスの生物目録にも、完全に一致する生物種は見つからない。

 更に特定を進めようとするが、蠍は足早に接近してくると同時、黒光りする両手の鋏を振るう。

 歯切れの良い音が連続して大気を震わせる。大木さえ容易に切断できそうな大鋏。あんなものに捕まれば、自身の肉体などひとたまりもないだろう。

 装甲のような厚い殻を纏った様相は命の危険を想起させ、根源的な怖気さえ誘発させる。

 四対の脚はしっかりと竜の鱗に立脚しており、安定した機動性を発揮している。

 城壁さえ突き崩せそうな鋭い殴打を辛うじて避けるが、膠着状態もいつまで続くが分からない。

 数秒間、敵の猛攻を寸前で避けながら、一抹の違和感が脳裏に浮上してきた。

 『このサソリ、なんだかおかしい……』

 何故かどうしても、一個の生物として生れ落ち、後天的にディーヴァに洗脳されているようには思えなかった。

 ゲヘナ晶原に生息する生物群は既にその悉くがアーカイヴスに収載されている。

 確かに全ての生物種を網羅しているのかと問われれば、完璧とは言い難い。しかし、魔法を用いた生態系調査は当然ながら地中にまで及ぶ。

 このような中型生物の存在を見過ごすほど、魔科学技術は伊達ではない。

 ならば――残された答えは一つ。

 朧げながらその解まで辿り着こうとした矢先、正面から必殺の打撃が繰り出される。効率的に自重と加速度を載せた右ストレート。当たればどこでも構わない。致命傷は避けられない。それならば命中率の高い胴体部を狙うと――それは容易に予測出来た。

 クレイズは十分余力を保ちながら、真横に跳んで避けようとしたとき――――。

 『――あ、まず……』

 自身の斜め後ろに、更にもう一体――――蠍がいた。

 既に凶悪な太い棘を纏った鋏には渾身の力が溜められ、降り抜かれる直前だった。

 視界の裏に一瞬先の自分が映る。腹部に大穴を穿たれ、大量の血と臓腑を撒き散らし、絶命した自分の姿が。

 本能的に死の恐怖から目を背けようと、現実からすらも眼を逸らしかける。

 『これは――さすがに、死んだ……か……』

 ――その瞬間、連鎖した爆発音が響き渡る。

 黒体の真横から頭部にかけて振動弾が幾重にも着弾し、大音量と共に周辺に熱風を撒き散らした。

 生じた隙を見てその場から離脱し、クレイズは2体の蠍を視界に入れた。

 「ふぅ、今のはかなり危なかった……ありがと。なんだか、さっきから助けられてばかりね。」

 傍らに銀髪を靡(なび)かせるユリアが降り立つ。

 僅かな余裕と共に呆れたような表情を張り付けながら、その声は穏やかに暗闇の中に響いた。

 「まったく、一人でいつも先に行っちゃうからでしょ。次からもう少し、反省してください。」

 「はーい、善処します。」

 最低限の体裁を保ちつつも、声には震えが伴っている。心臓の鼓動も最高潮のまま落ち着く素振りもない。

 クレイズはダークスーツの埃を払いながら、自身の見解を述べた。

 「あれ、生き物じゃないわよね。一度斬ってみないと分からないけど、たぶんそれで合ってると思う。」

 「私も同意見よ。2体目が現れた瞬間が確認できなかった。それに、私の攻撃もただ表面に当てただけじゃ、あまり効いてないみたいだし……。」

 目の前の蠍の内、振動弾を受けた個体はほぼ無傷のまま此方を見つめていた。虹彩の伴わない、虚ろな黒点。その動き、その瞳からは一抹の知性すら感じられない。

 カチカチと4つの鋏が打ち鳴らされ、不快な音が洞穴内に響き渡る。

 一介の生物であれば、振動弾を受けた時点で体部の痺れや脳震盪が引き起こされ、その機微に多少なりともふらつき等の症状が見られる筈。

 だが今のところ、そのような所作はみられない。

 ――生物的な外見を模しただけの、魔力により編まれた虚(から)の人形。

 不十分な情報から当たりを付け、対処法を検討してゆく。

 定石手段としては、動力の供給経路を絶つか、術者を先に仕留めることが挙げられる。

 ――しかし。

 答を出す暇もなく、周辺一帯から硬質な石同士をぶつけ合う音が無数に響き渡り始める。

 ソレは竜の表面から黒い影が膨れ上がるようにして、音もなく一体、もう一体と、黒鉄を纏う蠍は増殖を続けてゆく。

 『これは……』

 『……かなりまずい、わね。』

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