クレイズがユリアの部屋の敷居を跨いでから三時間が経過し、既に太陽の位置は高く、その煌々たる陽光を遺憾無く第三都市のビル群へと降り注いでいた。
都市の中心点から東部に少しズレた位置に穿たれた巨大な人工湖畔が晴空の合わせ鏡と為り、赤い球体をシンメトリーに映し出す様はまるで壮大な風景画のようであり道行く人々の歩調を鈍化させている。
そんなことなど露知らず、二人の少女は起床魔法に促され、自動的に上方へスライドした透明な蓋から外へと足を伸ばした。
既に魔水は排出孔から流れ、丁寧な乾燥工程も終えている為衣服には水分など一滴も残留しておらず、それどころか浄化魔法を掛けた直後のように清潔さを取り戻していた。
空気塊を押し流し微風を生成する一挙一動が洗浄された肌には心地良い。床を踏み締める素足の裏側から伝わる温度がひんやりと感覚器官を刺激し、それがアクセントとなり一層「生」というモノの喜びを実感した。
この日は11月の中でも特に人が生活するのに適する気温設定に調整されており、とりわけ最適化を受けた直後でうとうとと微睡(まどろ)みながらその感覚を味わったならば、至福の一時(ひととき)と言えよう。
「…………くぁ……」
快適な寝起きを堪能したクレイズは、揃って生体最適化装置(オプティマイザー)の配置された部屋から、欠伸を右手で抑えながらユリアに招かれるままに彼女の部屋へと向かった。
寝ぼけ眼に清掃の行き届いた廊下を映しながら、目の前で揺れる流麗な銀髪を追い、目元を擦りながら微かに優しい花の香水が仄かに香る一室へと歩を進めた。
「さぁクレイズ!最適化(オプティマイズ)も終わったところで、そろそろ新しい服に着替えるわよ!」
部屋に辿り着いて直ぐ、此方側を振り向いた銀髪の少女は朗らかな笑顔と共にそう言い放った。
「……ぇ……でも、私は他の服なんて持ってきてないわよ?それなら買いに行かなきゃ……」
いきなりの提案に内心たたらを踏み上手く返答を返し切れないクレイズに対して、彼女は続け様に正当な理由を提示した。
「でもそんなボロボロの服で店に入ったら可笑しな目で見られるに決まっているじゃない?それに普段着を揃えるのならいざ知らず、そこら辺の店で魔法加工されて戦闘に適した服が置いてあると思うの?」
なるほど、確かにユリアの言葉には一理ある。だが、その心の中に潜む何か形容し難い嬉々とした感情を彼女の表情と声の調子から察し、クレイズはユリアに疑問視を向けながら訝(いぶか)しむように呟いた。
「……確かに無いわね……じゃあ、お言葉に甘えて貸して貰うわね……?」
「ふふん、よろしい!じゃあクレイズにはこの服を着て貰いましょうかねぇ」
言い掛けながら、ユリアはさも調子の良さそうに大型の衣装棚の内部を豪快に漁り、10秒ほどガサゴソやっていると不意にその動きを止め、両手にソレを掲げてクレイズへと見せ付けてきた。
「お待たせ!同じ柄がありすぎて、貴女に合いそうなサイズを見つけ出すのに手間取っちゃったわ!」
自分の眼前に広げられた黒色の衣裳を見止めて、驚きと共に一抹の不安が脳裏を過(よぎ)った。――――――私は、この服を身に纏って本当に良いのだろうか……?
「……それは……ガンスリンガーの…………いいの?」
仲間達の結託の印で在り、友情の証、家族証明でさえ在るその衣装を身に着けることがどんな意味を内包しているのか、クレイズは頭に浮かんだ幾つかの思案に惑った。
「勿論よ!気兼ねなく着てちょうだい。貴女にとっては幸か不幸か、この服しか今は備蓄がないの。それにこれなら、動き回るには最適だと思うわよ?」
しかし、ユリアの気兼ねの無い笑顔を正面から受け、そんな気遣いも無用なのだと自然と識る事ができた。ユリア・ノーチェスはもう既にその憂いの大半を煌々たる希望へと昇華させている。唯一つ、心残りが在るとするならばそれは他者を救うという経験か……
それを得ることが出来れば、或いは―――――――いや、そこから先は私が考えを巡らせることでは無いわね……。
「分かったわ、じゃあありがたく使わせてもらうわね!―――――――――――……ん?……ユリア、ちょっと…………」
渡されたシャツを羽織り、前面のボタンを締め終えたクレイズは或ることに気付き、形の良い眉を顰(ひそ)めた。
「どうしたの、クレイズ…………?」
「この服……胸のあたりが少しきついわ…………もう少し大きいの、無い?」
傍から見ても、クレイズの肢体に充てがわれたダークスーツは胸部が張り、少々窮屈そうだった。
先ほど彼女のサイズを正確に目測し、慎重に適切な服を選び抜いた筈だったが、着痩せするタイプなのだろうか……?こうなってしまっては、ユリアが以前にほんの少し見えを張って予備に購入したワンサイズ大きい物を試して貰うより他に無い。
外見では彼女のモノは自分の胸と大して変わらない大きさのはずだが……。むぅ、と少し唇を尖らせ目を少しばかり細めて紅髪の少女の肌理細かい肌を睨めつける。
「……え、えぇと……どうしたのよ……ユリア?」
「クレイズって、結構『有る』わね……仕方ない、私の秘蔵していたサイズのを出すしか無いらしいわね……」
内心溜息を吐きながら金属製の大型クローゼットの中を引っ掻き回し、ユリアはやっとクレイズに合うであろうサイズの服を選び出した
「はい……多分、これで大丈夫だと思うわ。念の為に購入しておいた胸囲がワンサイズ大きめのものよッ!さぁ、これを試してみてちょうだい!ま、少し大きいかもしれないけどね……」
「あ……ありがとう…………」
少し拗ねた感じで差し出すユリアに苦笑しながら、服を受け取り、シャツを羽織るクレイズ。
ユリアから受け取った新品の制服に袖を通し、感じた一番の感想は『うん、これならしっくり来る』だった。
「……あ、これはぴったりね!……えぇと、―――――――……ユリア?」
服の繊維は精密に編み上げられており、特殊合成繊維も多量に使用されているのか、動き易く破れ難いという印象が先行した。
鏡で自分の全容を視認し、不備が無いことも入念に確認した。これならば次の戦闘にも何ら支障を来すことは無いと見える。
「ぐぬぬ…………」
何かごにょごにょとユリアは唸っており言葉の後半部は殆ど聞き取れなかったが、何となく空気を察してクレイズは違う話を振ろうと―――――――
した瞬間、何か優しげな甘い香りを纏う柔らかいものに全身を抱き留められた。
「私だって、まだまだ成長期なんだからぁーーーーーッ!」
「――――――にゃっ、何ッ!?」
いきなりの事態にどう反応すれば良いのか判断できず、戸惑うばかりのクレイズは尚も自分の前面に擦り寄ってくるユリアの為すがままにされる。
正面から加えられた運動量に逆らうことは叶わず、腰掛けていたベッドに背中から倒れる二人…………これは何故か、とても懐かしい感覚を少女に想起させる。
エミリアと二人で過ごしていた時に感じていた幸せに似ている…………あの時はクレイズの方が抱き付く側だったが、今は逆に押し倒されている。だが、これも悪くはなかった。
まだ最愛の妹と離れてからそう時間は経っていないというのに、とても遠い昔のことのように感じてしまうのは何故だろう……
またこんな風に、姉妹揃って無邪気に、笑い合いながら戯れ合う日々が訪れることは在るのだろうか?―――――――大丈夫。きっと――――――その為に、私は今を生きているのだから。
クレイズは目を細め、ふぅっと浅い吐息を一つ吐いた。その表情には何かを決断した時のような、安心感を見出したような雰囲気が表れていた。
その仕草見て彼女も何かを読み取ったのか、ユリアも口の端を緩め、何かを見守るように優しげな表情を作った。
「クレイズ……少しは元気出たみたいね。ずっと妹ちゃんのこと考えてたんでしょ?」
「ユリア……ごめんね。心配掛けちゃったよね…………?」
「うぅん、そんなこと無いわよ。それに作戦まで時間あるんだから、今日は私のエスコートで楽しんでもらうわよ、この第三都市を。さっきまでの辛気臭そうな顔をして妹ちゃんを迎えになんて行ったら、逆に心配させかねないからね!」
僅かばかり神経質に感慨に耽っていたクレイズにとってそれは降って湧いた、望むべくも無く、断る理由などこの世界の何処を探しても見付からないであろう快い提案だった。
今の自分は焦り過ぎている。さも何かに急かされるように、何かに追い立てられるように―――――――それは数時間ほど前から、自分でも痛いほどに理解していた。
適量の切迫感ならば、精神を引き締めるには適当だろう。しかし、現在クレイズの内に張り詰めた緊張の糸は、確実に毒と成って少女の心に燻(くすぶ)り、その全身を蝕み始めていた。
このままではいざという時、本当に自分の全力を出し切らなければならない場面で、普段ならば自分の背中を力強く押してくれる筈の闘志が空回りを引き起こし兼ねない。息抜きも適度に差し挟まなくては…………
そんな自己評価からか、返事は殆ど間隙を待たずして、喉の奥から自然と湧き出てきた。
「分かったわ、じゃあ今日はよろしく!」
「ふふっ!じゃあ手始めに、さっきの続きと行きますかぁ!」
待っていましたとばかりに少女の意向を笑顔で聴き届けると、言うが早いがユリアは勢いも確かにクレイズの柔和な胸中へと飛び込んだ。
「ユリアっ、ひゃっ!?え、ちょっ、あははっ―――――――――――」
瞬時に背中から抱き付かれ、前面へと回されるユリアの端正な両手の指に何か危機感を覚え抵抗しようとする。が、その場は何故か振り払えず、為(な)されるがままに刻は過ぎていった。
―――――――――――――――……………。
「さぁ、服も着替えたことだし、次は何する?」
一頻(ひとしき)りクレイズをくすぐって玩具にした後、ユリアはご満悦とでも言うように上質なクッションに横たわる紅髪の少女へと水を向けた。
服選びから現在に至るまでの間に起こったことなど忘れ去られたかのように告げるユリアに、クレイズはジトりとした目を向けたが、やがて諦めたかのように彼女の会話に合わせることにした。
「…………ユリア、貴女さっき自分でエスコートするとか何とか言ってたじゃない?もしかして忘れちゃったの?」
首を傾げながら長い紅髪を揺らし尋ねる少女に、ユリアは掌を振り否定の意を示した。
「いや、忘れてなんて無いわよ!先にクレイズが何処か行きたい所あるなら案内してあげようかなと思っただけよ!どこか無いの、そういうとこ………?」
「そんなこと言われても私は第三都市に来るのは殆ど初めてなのよねぇ…………4Sシステムで大体の街並みと特徴くらいは知識として詰め込まれているけど……」
元々リエニアに存在する8つの大都市に、それ程迄に突出した差異は存在しない。
それは各々に特化させた性質で相互に補助し合いながら人々のライフラインを築き上げるよりも、都市毎に独立した欠点の存在しない完璧な生活環境を敷く方が、仮に有事の際に幾つかの都市が機能不全に陥ったとしても、残存する都市で生き残った人々を迎え入れ、その安全を保証できるからという災害対策の概念が強く在る為だった。
「クレイズの出身、確か第八都市だったわよね…………でも、一つぐらい行きたい場所無いの?」
「そうねぇ……じゃあ、今日は普通に人工湖畔沿いを散歩でもしましょう!あの自然景観は、第三都市の一番の特色でしょ?」
縁辺の形状と面積の誤差、太陽光の入射角の違いにより多少は他の都市より綺麗だと評されている第三都市の湖畔だとしても、この都市に幼少から生まれ育ち住み続けている者としては、都市標準装備の大きな部品よりもその細部を構成しているちょっとお洒落な喫茶店や服屋などを言って欲しかったのだが、今のクレイズにそれを望むのは憚(はばか)られた。自分は請け負った仕事の関係上、他の都市を行き来したり、都市外に出て数日過ごすこともそれほど珍しいことではないが、相手はちょっと前まで他の都市にすら出掛けたことのない箱入り娘。
そんなことまで要求するのは野暮だといえよう。それらの点を踏まえ、ユリアは溜息混じりに脳内で今日の息抜きプランを完成させ、出発の合図を目の前の可愛らしい相棒へと送った。
「結局それなのね……まぁいいわ!あの通りにも、良いお店結構知ってるし、きっと貴女を満足させられると思うから―――――――さぁ、行きましょう!」