自作小説

【第1部第2章7節】Crisis Chronicles

 まるで厚手の透明な毛布に全身を包まれているように、傷付いた少女は筆舌に尽くし難いほどの多幸感を味わっていた。

 半固形状の流麗に透き通る水が、まるで母親が生まれたばかりの赤子をその両手で優しく抱き寄せるように、儚げな少女の絹のように白く、肌理細やかな柔肌を丁重に包み込む。

 その滴の一際柔らかな中心部で、彼女は浅く寝息を立てて昔を懐古する淡い夢の中に微睡(まどろ)んでいた。

 「んん……ぁ…………エミリア……セラ……おねぇ、ちゃん…………」

 その血色のよい薄桃色の口元からは、幸せだった頃の思い出を今再び経験しているかのように故人へ募った想いが泡と共に漏れては虚空へと解(ほど)けて消える。

 ここは温和な魔法で彩られた美しい泉のその中心。

 少女が魔水で満たされた楕円形のカプセルに身を沈めてから現在に至るまで既に約ニ時間が経過していた。

 生体最適化装置(オプティマイザー)と呼ばれるこの機械はその名称の通り、蓄積した疲労や傷んだ患部に最大限の治癒を施す為の棺桶に似た楕円形の匣(はこ)である。

 その金属製容器の内部はその用途に適した魔法を施されたゼラチン質のナノマシン溶液に満たされており、液体に全身を浸した者は「最適化(オプティマイズ)」され至福の一時(ひととき)を与えられる。

 使用中に受けるその上質な心地良さから、この魔法機器が世間から『上天の揺り籠(クレイドル)』と呼ばれることもそう珍しくはない。

 最適化(オプティマイズ)とは、その名の通り日々の生活により人体に蓄積した有害物質を余すところ無く排除し、不全部分の生体修復を促進し、使用者の躰を日常生活を行うのに最適な状態に正すことである。

 具体的には、生体最適化装置の内部に満たされたナノマシンを含む魔水にその肢体を浸すことにより、体表面から浸透した溶液が人体内外の老廃物を速やかに分解除去、不足成分の補充、生体機能の調節を行い、

 この世界に息づく人々の健康的な生活を普遍的なものとするため、その精神疲労(ストレス)や肉体疲労を生命活動の必要限度量まで引き下げる。

 結果として皮膚は瑞々(みずみず)しさを保ち、頭髪は艶を落とすこと無く、内臓器はその機能を遺憾無く発揮し続け、その果てに人体は可能な限りの最高パフォーマンスを維持し続ける。

 使用法は至って簡単であり、起動ボタンを押し、内部を液体が満たせばそのまま衣類を肌に重ねたまま三時間身を横たえれば良いだけだ。故に、今やこの世界にはUADバングルと共に無くてはならない誰もが認める生活必需品と見なされている。

 この装置の一般家庭への普及により人類の寿命延長と対老化効果は言わずもがな、精神疾患や皮膚病その他の治療にも大いに役立っており、当然ギルド従事者専用施設であるこの個室にも当然のように配備されていた。

 現在、2つの楕円形の匣は揃えて一室の端に配置され、その内部に銀髪の少女と紅髪の少女が幸せそうな面持ちでプカプカと浮かんでいる。

 全身を包む魔水は酸素を多量に含んで絶え間無く全身の細胞へと送達しており、終了時間になれば自動的に穏和な起床魔法が少女達を優しく目覚めせてくれるだろう。

 十数時間ほど前に終えた激闘と十数時間後に迫った苛烈を極めるで在ろう不相応な依頼。

 休息すらも満足に得ることが困難な二つの死線に挟まれ、緊張の糸を解(ほど)くことは戦闘狂にすら儘(まま)ならないことだろう。

 元来命のやりとりとはそういうモノだ。太古の昔にはボロ布を纏った原人が大型動物に石斧を持って互いに鎬(しのぎ)を削り合う。それが日常であり物事の摂理、生きるための必定だった筈だ。

 だが、現在の魔法世界に於ける人々の生活を垣間見ると、以前の猛襲的な争いは忘れ去られる程に沈静化され、日常生活とは一線を画し掻き消されようとしている。

 別段、それが悪いということではない。ただ、もし何らかの闘争を必要に迫られた時、果たしてこの時代に生きる者達は立ち向かうことが出来るのだろうか?

 自給自足からは完全に切り離され、極上の温室の内部で途方も無い優しさを糧に育まれてきた少女達は果たして、容易く折れてしまいそうな婉美なその両手足で生きてゆくことが出来るのだろうか?

 魔力という清浄なエネルギーの使用により快適で安全な生活が永久(とわ)に約束された幻想世界。それは恒常的に多量の幸福を発散するが、時として人々に中毒性の精神性視覚狭窄を齎(もたら)していた。

 それが今後に於いてどのような影響を及ぼすにせよ、今を生きる者達は未だその危機の末端部さえ予想だにしていなかった。

-自作小説