自作小説

【第1部第2章34節】Crisis Chronicles

 『―――よし、ゆっくり、ゆっくりとよ……』

 慎重に地面を踏み締め、靴裏の浅い擦過音さえ周囲の自然環境へと近似/同調させてゆく。

 幸いなことに、この大空洞内の卵の殻はすでにその大半が極小の砂粒まで粉砕され、地表は硬質な一枚岩のように圧縮成形されていた。

 恐らくはあのコンポジットドラゴンの巨躯によって踏み均(なら)されたのだろう。

 それにしても、見れば見るほど異常なその体躯を前に当惑する。蜷局(とぐろ)を巻いた実像へと近付いてゆく度に、現実に在っては異常な存在であることを再認識させられる。

 決してその存在を起こさぬよう、慎重にその脇をすり抜けることを試みる。

 およそ直径500メートルほどの大空洞。全力を出せば30秒とかからず走破することができるだろう。

 だが、その所作を起点として生じるあらゆる喧噪(けんそう)は、確実に巨竜の褥(しとね)へと至り、その眠りを脅かす結果へと繋がる。

 それだけは避けなければならない。

 アレは人が関わってはいけない領域に存在する魔物だ。

 徒(いたずら)に手を出せば、恐らくは、自らの死を以てその代償を払わされることになる。

 細かな靴裏の擦過音のみが、周囲の狭小領域内に波及していく。

 ユリアは事前に二人分の迷彩魔法を展開させており、その効果圏内において生じる音や温度など―――つまり原子の保持する熱振動が、外部へ伝播することを遮断していた。

 『よし―――なんとか、スルーできそう。』

 だが存在を其処に落とす限り、その痕跡を完全に拭い去ることはできない。

 例えば、光学迷彩を搭載した回転翼航空機(レクティア)も、飛行による周辺環境への影響(雲や気流の動きなど)を完全に隠匿することは出来ない。

 何者も、ただそこに在るというだけで、周囲の環境に少なからず影響を与えている。

 存在するということは、一定の空間を掌握することに他ならない。意図の有る無し如何に関わらず、総じて、他の物質の拠り所を奪うという行為。

 そして一度(ひとたび)排斥され、寄る辺を喪った無軌道な存在は、更に周囲を押し退け、次第にそれが無秩序に伝播してゆくことになる。

 蝶の羽ばたきが遥か離れた地点の自然災害の引き金となるという逸話も、それが所以となっている。

 つまりは、全ての存在はただそこに影を落とすだけで、己の存在する「系」全体に影響を与えるということだ。

 その始まりが例え、終ぞ消え入ゆく漣(さざなみ)だろうと、波及を続ければ、否が応にも、何処かで大災害の引き金に発展する危険性をも孕んでいる。

 ―――全ての事象は、全ての出来事の発生原因と成り得る。

 つまりこの世界に起こる全てのことは、全員が当事者であり、全員がその出来事に加担した容疑者であると云(い)える。

 知らぬ振りなど許されない。貴方達の存在こそがまさに、この悲劇を生み出したのだと、全員が等しくその罪過の責任を負うことになる。

 話を戻すと、完璧な隠匿魔法など、何処にも存在しないということに帰結する。

 結果的に、隠匿魔法から逃れた情報を感知できたか否か。―――それだけが、運命を分ける重要な因子たり得る。

 そうして二人が竜の近傍へと到達したとき、改めてその頭部の大きさに目を見張った。

 『こんなに大きな生物……よく地下で暮らしていけたわね。一体、何食べてたらこんなに大きく育つのよ……。』

 クレイズはその体格をまじまじと見上げるが、その全体像を把握することは困難を極めた。

 体表は巨大な魔晶石の結晶で覆われており、磨き抜かれた鏡のように、大空洞内の地下景観を明瞭に写し返す。

 そこに人の像はなく、光学迷彩が申し分なく機能していることを確認する。

 ユリアは心の中で頷き、緊張の最中に一抹の安堵が差す。

 『こんなところ、さっさと立ち去って次にいきましょ……ドラゴンも熟睡しているようだし、何事もなく切り抜けられるでしょ。』

 早々と歩いていく銀髪の少女を横目に―――クレイズはふと足を止め、その場から動かなくなった。

 「ちょっとクレイズ、何立ち止まっ―――」

 ユリアが背後の相棒へと向き直ろうとしたとき―――『瞳』が視界を覆いつくした。

 ギョロリと、涙液に濡れた巨大な眼(まなこ)が二人がいる筈の場所を捉えている。

 まるで総てを見通されているような、透き通った蒼い瞳だった。

 宝石のような艶やかな表面は一抹の疑念さえ纏うことなく、ただその正面を真直ぐに捉えている。

 『大丈夫、大丈夫。魔法の効果は維持されてる筈、私達のことは見えてない。』

 そう自身に言い聞かせる。だが、明らかにその焦点は二人の在処を見定めているようだった。

 「……ユリア、多分もう、気付かれてる。」

 冷や汗がクレイズの首筋を流れる。何故そう思ったのかは定かではない。だが氷眼にも似た竜の瞳自体が「視ている」と、そう暗に告げていた。

 規模感が異なるが、蛇に睨まれた蛙の如く、二人はその場から動けなくなっていた。

 パニックを起こして不用意に逃げ出さなかっただけ幾分ましだった。

 今にして思えば、そもそも何故、この竜がディーヴァに感染していないと楽観的に考えていたのだろう。遭遇時に寝息を立てていたからだろうか。

 このゲヘナ晶原に巣食う命であること自体が、既に感染していることを意味しているというのに。

 恐らくは嘘寝(うそね)を決め込むという命令を受け、私達がここに到達することを嬉々として待っていたのだろう。

 だが、隠匿された二人の存在を感知することが出来た理由に心当たりがない。しかし、今さらそれが分かったところで、最早何の意味もない。

 人と竜―――両者は依然として動き始めることなく、停滞を続けていた。

 「ユリア……。この状況、あなたなら、どう切り抜ける?」

 クレイズがユリアに問いを投げる。基本魔法を使用できない自分ではこの場を凌(しの)ぎ切る手段がない。

 多様な魔法を自在に操り、これまで幾多の困難を切り抜けてきた相棒が培ってきた経験とセンスに、一縷の望みをかけた。

 「どうもこうも、見つかちゃったんだから逃げ切るしかないでしょ。どこまでこっちを把握してるかは分からないけど、不用意に動いて相手を刺激して、暴れ回られることは勘弁ね……。」

 「確かに、あの巨体で暴れられたら、この大空洞自体が崩壊して生き埋めになる可能性があるわね。それだけは絶対に避けたい。」

 しかし、縮退しいつまでもこの膠着状態を続けているわけにもいかない。こうしている間にも、救い出すべき命の灯火は徐々に小さくなってきているのだから。

 「少しずつ距離をとるわ……クレイズ、ついてきて。」

 クレイズは頷き、目を合わせたままじりじりと巨竜との距離を空けてゆく。

 だが数歩を待たずして、竜の鼻息に煽られた砂埃が突風のように吹き荒れ、二人がいる空間の輪郭が球状に露になった。

 視覚情報としては、それだけで十分だった。

 「まずいっ!クレイズ、入り口まで走って!」

 ユリアが叫ぶと同時、それは耳をつんざくような咆哮によって掻き消された。

 途轍もない大音量が、広大な洞の中に響き渡る。

 同時に巨体から伸びた尾が、周辺の地面を叩き割り、直下の堆積物を乱雑に捲りあげる。

 卵の殻の層によって成された白い岩盤は再び、強烈な尾の一振りによって砕かれながら、大きな礫となって飛来した。

 その多くは長距離を越えて投擲され、大空洞の端の壁に衝突して崩落を引き起こす。

 轟音を伴いながら、二人の入ってきた入り口を押し潰すことで、その逃げ道を塞ぐことに成功した。

 矢張り、ディーヴァに感染した生物は知能が人並みに強化されるようだ。でなければ、ここまでに理知的な動きに転ずることなどありえない。

 この地下空洞に閉じ込められた時と同様―――最早、逃げ道は一つしかなかった。

 巨竜の向こう側に位置する大穴を認める。そこに無事に到達するには、巨竜との再度の交錯は必死。

 「―――ちっ、完全に嵌められたわけね。少しはゆっくりできると思ったら、次から次へと、一体どうなってるのよ、このゲヘナ晶原って場所は!」

 「クレイズ、今さら悪態をついても仕方ないでしょ!アレが人間並みの知能を備えてるってことは、やろうと思えば、もう一つの出口を潰すことも簡単でしょうね。最終的にはこの大空洞自体を崩壊させて生き埋めにすることもできそうだし……。」

 「その前に、あの竜を行動不能にするか、隙をついて出口から逃げるしかないってわけね。」

 ユリアは用を成さなくなった迷彩魔法を解除し、代わりに自身とクレイズの靴裏に重力魔法を纏わせる。足場の悪い地形で動き回るには必携とする魔法だった。

 「じゃあ、用意は良い?」

 ユリアは傍らの相棒へと目配せをし、不安を振り払いながらそれでもなお、進み続けるという意思を伝える。

 「えぇ、もちろんっ!」

 二人は雄叫びを上げる巨竜へと向かい、地を蹴りながら真正面へと加速していった。

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