―――静謐に染まった洞窟の奥に、多湿な空塊が静かに逆巻く。
淀んだ泥の臭気がその内を闊歩する足首を手繰り、無為な停滞を誘いかける。
―――コツコツと、人二人分の歩調が、寂寥(せきりょう)を孕んだ洞(うろ)の底に響き、ある種の色を差し込んでいく。
地を浅く削る靴裏や布の擦過音、地下水脈のせせらぎから生じる水声も織り交ざり、地下空間に空いた魔窟は、一時的に嘗ての活気を取り戻しているようだった。
大の大人が5人ほど両手を広げて通れるような、幅広い一本道のトンネルを慎重に進んでゆく。
深い森に穿たれた獣道のように、おそらくはこの道筋も、以前は様々な生物群が闊歩していたのだろう。
まるで巨大なアリの巣の中を探検しているような錯覚に陥る。
或いは迷宮に捕らわれたような感覚に、心裏に巣くう不安を誘発させられるが―――幸か不幸か、今のところ三叉路等の脇道は確認できていない。
壁に手を当てると、ひやりとした冷たさと共に僅かな振動が伝わってくる。どうやら付近の壁中には相当量の水が流れ込んできているようだ。
そこかしこに散在する微細な魔晶石を鑑みると、周辺の地中は疑似的なフラクタル構造を成していることが解る。
その内に晶化降水(レインフォール)が浸透し、蓄積した伏水(ふしみ)が長い月日をかけて、毛細血管のような間隙から洞窟の内表面へと徐々に漏出していった。
まるで鍾乳洞のように、形成された大小様々の魔晶石が、本来脆く崩れる筈の洞窟の強度を下支えしている。
最早、鉱石の厚い岩盤に亀裂を入れるには、爆発物などでかなりの衝撃を加えなければならない。
地面の上を渡るにしては硬質な足音が洞窟内に谺(こだま)し、暗闇の懐を埋めてゆく。
―――何処までも続くかのように思われた道程を経て、ようやく辿り着いたのは少し広めの空洞だった。
天井高くドーム状に穿たれた、学校の教室ほど広さの中空。
二人が入ってきた入り口を除くと、出口と成り得そうな穴は向こう3か所に見受けられる。
「ユリア、ここが分岐点みたいよ?どこから行く?」
問いを投げるクレイズに対し、ユリアは顎に手をやり首を傾ける。
スタンドアロン状態のアーカイブスを起動し立体地図を確認すると、ここからさらに同じような中空洞が数珠つなぎに配置されていることが見て取れた。
それらの空洞はまるで蜘蛛の巣のように放射状に拡がり、結局どの部屋を通っても、最終的には遠方に位置する大空洞へと繋がる。
その大空洞を抜け、少し進むとゲヘナ晶原の中心部であるラクリマの丘の付近に出られる算段だ。
「どの出口から行っても同じみたいね。小さな部屋がいっぱい繋がってるだけのようだから。」
「オーケー、じゃあ近場から行ってみるわね。少し中を見て来るから、ちょっとまっててね。」
クレイズはそう返すと、手始めに近場の穴をくぐり、その暗闇の先に消えていった。
周辺に生物の気配は全くと言っていいほど感じられない。どうやら追跡者達もこの洞窟内までは追ってきていないようだ。
生物群の強襲時から続いていた切迫感がようやく解け始めたとき―――ある種の違和感がユリアの内を奔(はし)った。
一人残された少女は、一抹の不安をクレイズが潜り抜けた穴へと向ける。
―――見るとそこは、噴出孔の如く瘴気が溢れ出し、暗い霧が吹きだしているかのような、妙な不快感の発生源となっていた。
恐ろしいまでに、命の残滓さえ何処か別の場所へと吸われていったかのような、砂漠のように枯れた違和感が周辺の環境に満ちている。
隣の部屋に入ってから、相棒の気配が極限まで希薄化したことは把握していた―――が、この場特有の様々な要因が相まって生じた結果だと高をくくっていた。
だが、数分間が経過しても、その後の音沙汰が全くない。
本来であれば、何かを見つけたとしてもユリアに声を掛けるなり、一度この部屋に戻ってきてもいいようなものだが……。
度重なる戦闘で生じた疲労感に加え、先を急ごうとする焦りからか、どうやら己の危機感知能力はかなり鈍っていたようだ。
今なら解る―――その入り口から、若干だが褪せた腐臭が漂ってくる。それは別の小部屋からも同様に立ち込めており、この広い地下空洞全体に満ちているようだった。そしてそれは、クレイズが入っていった穴から一層強く噴き出しているように感じられる。
仲間の気配の消失と異常の感知。ユリアの危険センサーが弱く警鐘を鳴らし始め、それは次第に大きくなっていく。
向こうの部屋に何があるのか、或いは何もないのか……自身の杞憂に終わればそれでいいが……。
クレイズには待てと言われたが、念のため後方から何者かが侵入してくることを危惧し、少し時間を空けてから彼女に続くようにする。
ユリアは生唾を飲み込み、一歩一歩、そこへ続く出入口へと近付いていった。
今いる空間が魔晶石から放たれる光で一定の照度を保っていることも相まって、近傍の伽藍洞(がらんどう)はかなり薄暗い印象を受けた。
部屋間の距離から考えると、地中の魔晶石の配合濃度は変わらないはず。
この大規模な地下空間全体が同じ基質の土砂で構成されているのなら、どの場所でも同じ明るさが保たれている筈だった。
だが入り口から望める隣の部屋は、明らかにほろ暗い。濃密な影が瘴気となって吹き溜まり、周辺環境すらも侵食し始めているようだった。
「クレイズ……聞こえる……?そっちの部屋に何かあった?」
位置口付近で相棒に呼び掛けてみるが、矢張り反応はない。
まだ遠くへは行ってないようだが、何の反応も返さないのは明らかにおかしい。
ユリアの背に冷や汗が流れる。鼻を衝く異臭に先を急かされるように、自身もたまらず、先ほどクレイズが入っていった入り口を足早に潜り抜けた。
中空間に躍り出た直後、手に魔導式拳銃を備え、周辺の安全確認を行う。
―――そして、眼前に飛び込んできた光景に目を奪われることとなった。
「……ぇ……なによ、これ……」