自作小説

【第1部第2章27節】Crisis Chronicles

 このリエニアで魔法使いが全生物種の中で最強格であると評される所以(ゆえん)。

 それは魔法という力の多岐に渡る汎用性にあった。

 例えどれほど有用な魔法でも、一度(ひとたび)使いどころを見誤れば、それは一転して、容易に他者の生命を脅かす猛毒と為り得る。

 これは初等部の最初期に習うこの世界の戒律。

 『生物とは、等しく死ぬために生まれ堕ち、故にその躰は、須らく死にやすいようにできている。』

 それが意味するところは、次の通りだ。

 生とは、死という定常状態からの一時的な逸脱でしかなく、複数の変調点が偶発的に重複して生じた火花と同義である。

 散った火が霧散する前に、何を成そうとも、或いは何も成さずとも、同じ偶然が起こることは、もう二度とない。

 やり直しは許されず、揺り戻しが起こることもない。

 それ故に―――「生」を得た。ただそれだけのことに、ひたすらの感謝を捧げるべきだ。さらに叶うのならば、自分が本当に満足のできる生き方を選び続けるべきだ。

 個人の人生は、その個人だけのものだ。他の誰か、或いは自身の根源的価値に相反する情熱の湧かない労働やその他の無為な行為に捧げられるべきものではない。

 生命や時間、健康には、とても大きな価値があること―――それを素直に自分で認めるべきだ。

 他人本位に生きる必要などない。降って湧いた一度だけの、自分だけの奇跡。福音とすら呼称できるそれは、他でもない自分自身が幸せであるために在るべきだ。

 やり残したことはないか?本当にやりたかったことを忘れていないか?子供の頃に描いていた夢は今、どれほど叶っているか?

 これからやりたいことを精査し、一つずつ達成していくことは、自身をさらなる幸せへと導いてゆく。

 リエニアに住む人々が掲げる幸福論の根幹は、一般に以上のような根付き方をしていた。

 現実としても、魔科学技術の急激な発展が功を奏し、市民には無為な労働義務から完全に切り離された生活を謳歌することが許されている。

 その経過は大まかに以下の道筋を辿った。

 ①情報技術の発展による大規模データベース(アーカイブス)の構築。これを都市の行政システムや一般市民の生活と接続することで、急速に多種多様な情報を収集・蓄積を可能とした。

 ②①により混沌としたアーカイブスへ人工知能を導入。収集した情報を想定用途・カテゴリ別に整理・紐付けし、検索性を上げ、人々が必要な情報を瞬時に拾い上げられる仕様とした。

 ③人工知能の発展に伴うアーカイブスの自動運営化。人工知能が②のメタ情報を選択的に組み合わせ、練り上げることにより、人工知能側から様々な新しい提案が行われるようになった。これにより人と人工知能それぞれの独創的なアイデアが数多く生み出され、それらを統合することにより、本来生み出されるはずのなかった様々な技術が行政システムやUADバングルなどを通して人々の生活に浸透した。

 ④③で生じた技術の悪性転用・濫用防止を目的とし、4Sシステムによる個々人への道徳管理体制を厳格化。この段階から魔法技術が本格導入され、本来であれば生物のみを対象としていた精神操作魔法を人工知能にも適用できるようにし、技術的特異点(シンギュラリティ)を超過して歯止めがかからなくなっていた人工知能の自己暴走を抑え込むことに成功した。人も人工知能も電気的思考パターン(複雑な神経・思考回路の連鎖的な発火)がその知性の基底部を成していたため、それ自体はきわめて容易に行われた(この技術の発展が後世の「霊体の研究・解明」に深く関わることとなる)。

 ⑤④により安全に運営・発展可能となった技術の活用。独自の魔科学技術として発展した人工知能から示された提案は、人々がこれまで行ってきた政治体制、労働環境、生活習慣などを合理的に効率化・自動化し、人生における可処分時間(自由時間)を多量に確保した。人の眼が介在しなければならない部分も勿論残っているが、労働は半ば、人生を有意義にするための一種の娯楽と成り果てた。

 この流れに伴い、今、リエニアに住まう人々の幸福論や価値観は多種多様・多方向に拡大を続けている。

 だが、いくら人工知能や魔法技術などが発展し、無為な労働などにより奪われていた時間から解放されたとしても、それと個人が幸せな人生を送れるかどうかは別問題だ。

 得られた時間で何を成すか。生み出された物事が如何にして自身の価値基準に添い、幸福を精製し、満足感や充実感の享受に寄与(きよ)するのか―――それが最も重要な事象である。

 勿論、UADバングルを通して人工知能に頼れば、様々な行動提案を受けとり、望めば人生設計さえも須らく一任することが可能だが、結局は自身の価値観/存在理由を決定付けるのは自分自身だ。

 自分の人生が幸せになるかどうかは自己責任。あくまで、自身の人生の主役は、自分でしか有り得ない。

 与えられた労働義務から解放され、「何をしても、何をしなくてもいい人生」を誰しもが享受できるようになった世界だからこそ、自己決定権(人生の運営能力)が個人にとって重要な位置を占めることになる。

 結局のところ、自身の周囲に散在している物事の機微をどのように知覚し、どう受け止めて思考心理へと反映させ、最終的にどのような行動に移すのかは自分次第なのだから。

-自作小説