自作小説

【第1部第1章8節】Crisis Chronicles

 魔力と呼ばれる尊大な奇跡によってその盃を満たされたリエニアと呼ばれる世界。だが、嘗てその楽園は混沌と戦乱に見舞われていた。

 現在の形に落ち着くまで幾つもの時代が生まれては破綻し、脆くも崩壊していった。

 原因はその都度に応じて異なるが、そこには極小の悪意がより大きな悪意を膿み、憎しみが連鎖し、果てには消滅を招いたという共通点が在った。

 知性を持つ生物が永久の繁栄を目指せば、そこには必ず他者を踏み台にしてでも自分をより高みへと押し上げようとする原罪が生まれる。それは信頼という互いを結んだ鋼鉄の鎖を錆びさせ、腐敗させ、断ち切る。後に残るのは外に向けた敵意と内に秘めた孤独感と一握りの諦念。

 知的生物に個々の意識が宿る限り、その文明の発展の先に崩壊が訪れるのは必至。

 ならば、今在る世界もまたいつかは終焉を迎えるのだろうか。途方も無い時間を費やし、ここまで発展した現在の世界(リエニア)も。

 ――敢えて言おう。その確率は限りなく低いと。

 その最大の理由は、この世界に住まう人々の意志が緻密に制限され、或る一方向に誘導されているという奇怪な現象に在った。

 それは世界規模の洗脳で在ると言い換えても何ら差支えはない。

 幼少期から抗えぬ義務として享受される4S-Systemと呼称される学習方法。その実態は現文明の維持に最適化された道徳の矯正に在った。

 最初期にこの学習方法が確立された瞬間から、恐らくは考案者達はこの成り行きを予測し、考え得る未来に想定していただろう。――或いは意図して………

 リエニアに生まれ落ちた人間は余程の理由が無い限り、遅くとも出生後三週齢には一度ならず黑色のEducaterを頭部に装着し、4S-Systemをその身に体感する。

 それがあたかも当然のように、この世界の人間は疑問を微塵も抱くこと無く手渡された知性を享受する。

 同時に、幼い頃から将来立派な大人に成熟できるよう、両親は4S-Systemを通して自らの子の精神に幾重もの枷を掛ける。殺人を犯してはならない、法を犯してはならない、世界を脅かしてはならない……

 ヒトはこの行程を経る事によってようやくリエニアの一部として迎えられる。故にこの世界で4S-Systemを受けた者は、ほんの一握りの例外を除いて狂気をその内に孕む事は無い。

 憂慮すべき狂気の核と成り得る微細な悪意が存在しなければ、恒久的で調和の保たれた安全な世界が実現される。

 全ての害意が排斥された世界――リエニア。

 だが矢張り、滅菌を重ねた無菌室の内部からも人間という異物が取り除けないのと同様に、この世界にも取り除かれるべき汚点が存在した。

 ――無能力者。

 須らくというわけでは決して無い。だが、その一部には無視しておくには危険過ぎる者も存在する。

 彼らはリエニアに於ける「都市」には深く関わらず、魔法とは一線を画して日々を消化している。

 故に幼少期に4S-Systemを受けることが義務付けられていても、それに応じない者は少なからずいる。

 生後に親に捨てられた者、意図的に都市の要請を拒む者、偶然の連鎖により奇跡的に受諾する機会を得られなかった者……そんな、社会不適合者達が。

 彼らは都市の意向に沿った道徳に脳内を最適化させていない。そうなればどうなるか……以前までの時代と同じだ。己が欲望の為に他者を何の感慨もなく陥れ、その生を破綻させ、彼らの慟哭を浴びて悦楽にその身を浸す。

 そしてこれは稀に魔法使いで在っても当て嵌まる。この世界に数人居るかどうか――だが確実に存在し、息を潜めている。

 その異端者が引き起こした災害として最近では「重力汚染事件」が一例として挙げられる。詳細は一般市民に公開されていないが、悪意を持った何者かが重力負担領域の核と成り、発生したのは言うまでもない。

 その事件は治安維持局の活躍により迅速に収束していったが、これを期に4S-System未経験者の摘発は一層厳しくなった。

 だが、無能力者街(スラム)は都市の要請に一向に応じようとはしなかった。

 それがこの世界の現状、この二種類の人間の4S-Systemに対する見解の相違によりこれからの先行きがどう変遷していくのか、それだけがこの世界を変革し得る唯一の要素だった。

◇◇◇◇

 クレイズはそのまま寮の自室へと帰宅し、ガサゴソと荷物整理を行い、愛しい家族をその手で奪回する為の準備を整えていた。

 「あと持っていくものは……こんなものね……」

 必要になるであろう荷物は最小限に取捨選択し、小さめのバックパックに確かな決意を織り込みながら全て積み込んだ。

 不意に、右手の拳をギュッと力強く握り締める。

 「もう、絶対に大切な人を失ったりなんかしない……絶対に……」

 クレイズは荷物を持って立ち上がった。これから久しくなるであろう自分と妹の部屋を最後に見回す。

 ――机の上に、昔の写真立てがあった。

 椅子に座っている幼いエミリアに後ろからクレイズが抱き付き、そこにセラが抱き付きながら姉妹三人仲良く笑顔を輝かせており、その隣には父であるキングズ・オルブライトも微笑んで立っていた。

 「また……みんな一緒に暮らせるよね……」

 クレイズは写真立てを胸に抱いて数秒間願掛けを行うとそれを机の上に戻した。確固たる決意と共に荷物を持ち上げ、ゆっくりとだが力強く階段を踏みしめて降り、目の前のドアを開け放ち、寮の廊下へと出た。

 その時、視界の端に親友の部屋へと続く扉を捉える。何故か、心の救済を求めてか、今のクレイズにとって彼女の下を訪れることが比類無く魅力的な選択肢に想えた。

 「あ……、エリスには一言話してから行こうかな……」

 これからすぐにでも出発しようと思っていたが、やはり親友は必要以上に自分のことを心配してしまうのだろうと考え、エリスに直接会って一時の別れを告げて行くことに決めた。

 自室の正面から斜め右のドアをノックする。自室から出て数歩の距離を、これ程迄に遠いと思ったのはこれが初めてだった。数十秒後自分の目に映るであろう親友の暗い表情が鮮明に脳裏に浮かぶ。

 ――ごめん、エリス……それでも、私は――。

 「エリス……居るの?……」

 「は~い!クレイズ、ちょっと待ってね!」

 十数秒後、扉が開かれ、その奥に見慣れた顔を見て取れた。その瞬間、自身の胸が張り裂けそうな感覚に襲われたが、どうにか浮かんだ涙を堪えた。

 「はい、お待たせっ!……ん?ちょっとクレイズ、元気ない?」

 どんなに辛い状況でも、彼女の笑顔を見ると、何故かホッと安心できる。

 『大丈夫……私はこの掛け替えのない笑顔を守るために、愛する妹のエミリアをこの両腕の中に取り戻すために、あの幸せだった8年間の日々を取り戻すために旅立つんだ――。』

 この思いを胸に、クレイズはエリスに旅立ちとその理由を告げた。

 「さっきの事件でエミリアが……黒服の知らない奴らに連れて行かれたの……でも、私はエミリアに必ず助けに行くと約束した。だから私は……今から大切な人たちの止めてくれる声を振り払って、それでも妹を助けに行く。エリス……私、絶対、絶対にエミリアを連れて此処に帰ってくるから。だから……あんまり心配しないで、待っててね。」

 発せられる声調と向けられる表情、僅かな仕草から、心が傷だらけになっているにも関わらず平然を振舞おうしている親友の内心が痛々しい程に読み取れた。

 その様子を間近に見て、エリスは昔から無茶でも危険なことでも全て一人で抱えて、一人でやり遂げてしまうクレイズに少しムカついた。親友である私自身を蚊帳の外に置き去りにするというその発言に腹が立った。

 何よりも、親友のエミリアがそんな事件に巻き込まれているということを知らなかった自分を、情けなく感じた――。

 バチンという音とともに、クレイズの視界が一瞬真っ白になった。

 内から零れる悲しさと不甲斐なさ故に、エリスは少し涙ぐみながら、目の前の親友に向かって、その頬を右手の平で叩きつけたのだ。

 「何で……何でアンタはいつもいつも一人で抱え込んで……少しも私に相談もなしに一人で何もかも決めちゃうのよっ!?もっと頼ってよ!私を!私は貴女の……あなた達の親友でしょ!?」

 その声は怒りと涙で震えていた……少し前の私みたいに……だから本当の意味で決心することができた。

 「ごめんね……エリス……でもね、貴女が私達の一番の親友ということに変わりはないわ……それは何があっても変わることはない……そして、貴女が待っていると分かっているから、私はこの場所に必ずまた帰って来れる気がするの」

 「そんなの……そんなの分からないじゃない……もし二人が帰って来なかったら、私は…………」

 クレイズは震えるエリスの手を、自分の手で暖かく包んで、優しく言葉を紡いだ。

 「今まで、私が約束を破ったことがあった?」

 「それは……無いと思うけど……」

 「なら、今回もそれは変わらないわ……今此処で、私の親友とその友情にかけて誓う。私は必ず、エミリアを連れて此処に帰ってくる。だから信じて……この私達が共に過ごしてきた8年間を……」

 「8年間……を……?」

 「そう……私とエリスとエミリアとセラお姉ちゃんと……4人で過ごしてきたこの8年間に誓って……」

 エリスの脳裏に、この8年間一緒に過ごしてきた4人の思い出がまるでアルバムのページを一枚一枚めくるように再生される。

 『そっか……このためにクレイズはいつも一生懸命で……いつも一人で疾走っていたんだ……』

 ――クレイズはいつも4人で過ごすことを望んでいた……大切な人達と一緒に居るために、いつもそのために一生懸命だったんだ……そして、それはこれからも変わることはないのね……。

 エリスは美しく流れるような金色の麗髪を揺らしながらクレイズの暖かな両手を優しく握り返し、ポタポタと双眸から流れ落ちる涙をぎゅっとこらえ、クレイズを笑顔で送り出すことに決めた。

 「私が一緒に付いて行くって言っても……私は貴女ほど強くないから足手纏いになってしまう……そんな私にはなりたくないから……私は、誓いを立てたこの場所で、あなた達の帰りを待つわ……。」

 「ありがとう、エリス……。」

 クレイズとエリスは互いを抱き締め、互いの想いを交換し、共有した。

 最後に微笑んだエリスの左目の端から涙が一滴流れた。

 「じゃあ、行ってきます。」

 「――行ってらっしゃい。」

 ――あぁ、クレイズの誕生日プレゼント……渡しそびれちゃったなぁ……。

 エリスはクレイズが去った後、リボンで包装され机の上に置かれていた小さな箱を手に取った。それを両手で包み込み、優しく胸に抱く。

 「クレイズ……どうか、どうか無事に帰って来て……」

 それは神に祈りを捧げる敬虔(けいけん)なシスターのように、純粋な願いをその身に纏い、エリスは窓辺から伺える清浄な星空にその想いを馳せた。

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