――――――――暗い廊下に、足音が硬質な側壁にヒタヒタと反響する。
誰にも悟られること無く、天井から蜘蛛のように、何かが宙吊りの状態でぶら下がっていた。
ソレは眼部に漆黒のバイザーを装着し、遥か前方の存在を慎重に観察していた。
常闇を往く者は二人、並んで歩行を継続している。今はまだ事を荒立てるつもりは無い。――――――追跡を継続する。
「エウリーデ、私はこれから捕虜の経過観察に行かないといけないので失礼します。」
数分間の追跡を経て、寄り添うように歩いていた二つの動体は、軈(やが)て単独行動を採ろうとしていた。
「フィオナ、ワタシモイコウカ?ナンダカ、イヤナカンジガスル」
「エウリーデがそんなこと言うのは珍しいですね。…………ですが、心配は無用です。此処は絶対に安全ですよ……絶対に。」
微笑みながらそう告げると、片方―――――標的は一人、生命反応の少ない方角へと、歩を進め始めた。
クルス霊森から戻り数時間が経過していた。
時刻は06:34。エウリーデとの雑談が超過した為、フィオナは決められた静養時間を確保し忘れていた。
――――――――知っている、アレは、ウソの笑顔だ。心の中は反逆心、怨嗟(えんさ)が渦巻いている。ワタシには、ワカル。
物音を一切立てること無く、ソレは闇の中を掻(か)い潜みながら標的の後を付け狙う。―――――――好都合、好都合。
白い髪の少女はソレに気付く事は無い。流れるような歩調で、彼女は目的地へと向かう。
長い廊下の天井から、這うように、伝うように、テーブルに零れた水のように、ソレは影と一体となって追跡を継続した。
冷たい空気が首元を擽(くすぐ)る。この暗闇の中、感覚が鋭敏になっているのか、フィオナは何者かの視線を感じていた。
―――――――ッ!
背後を振り返る。しかし、当然のようにそこには細長く廊下の陰翳(いんえい)が続いているだけだった。
『――――――気の所為……ですよね……』
ジトリと、首筋には冷や汗が浮かんでいた。原因は不明だが、背後に潜在的な恐怖を覚える。
自然と、歩調は加速していた。単調なリズムは崩れ、早く目的地へ着こうと、それは段々と速くなる。
「ハァ……ハァ……」
息が切れているのは、決して体力が尽きたからでは無い。壁を這うような音が、水のような音が微かに鼓膜内に侵入してくる。その恐怖からだ。
曲がり角を三度曲がり、時折背後を振り返るが、やはり何も居ない。
『やはり、勘違いですか……不本意ですが、後ほど、一度父様に第六感(シックスセンス)を調整して戴くことにしましょう。』
『―――――――大丈夫。気の所為ですよ、気の所為。何のことはない、ただ感覚が機敏になっているだけ。エウリーデが変なことを言うからです。―――――まったく……。』
今まで、こんなことは一度として無かった。
フィオナが幻聴だと思い込むのには相応の理由があった。彼女はこの城が侵入者を拒む絶対の要塞として機能を果たし、内外問わず、幾重にも探知魔法、罠が仕掛けられていることを承知している。
―――――――――ツゥ…………。
その防衛強度足るや、都市の治安維持局の最高戦力――――Shields-シールズ-の迷彩魔法を軽々と打ち破るほどだった。
加えて、自らの生体探知能力にも絶対の自信があった。その慢心ゆえ、フィオナは迫る敵を認識できない。
四度目の曲がり角を左折し、目的地である勾留室が存在する部屋まで後少し――――――――――
――――――――――ザシュッ
「――――――あ」
切断音が鳴り響いた。しかし周囲は闇。その痕跡を辿るものは誰一人として存在しなかった。
悲鳴を上げる暇すら無く、背部から脊髄を深々と断ち切られ、優雅に倒れ込むようにして白髪の少女は冷たい廊下へと体重を預けた。即死だった。
蜘蛛のように天井の闇から鋼製ワイヤーでぶら下がっていた暗殺者は音も無く地面へと降り立ち、死体を確認した。
女性の口元には一筋の血が流れていたが、他は綺麗なモノだった。ソレが頭部に装備しているバイザーの奥にある眼には精巧な人形のように映った。
死体を引き摺り、近くの物陰へと移動させ、外套のような黒衣を纏っているソレ―――――No.666(オーメン)は魔法を発動した。
魔力反応光が一瞬辺りを照らすが、誰も気付くことは無い。
証拠現場、証拠物品、死体を処理し、物陰から出てきたのは―――――――フィオナだった。
「さて、ターゲットに接触するとしましょう……。」
外見は先程殺害された白髮の少女。しかし、それは外面を魔法で模倣したオーメンだった、
使用したのは独自のアレンジを加えた変装魔法。数時間に一度掛け直さなくてはならないが、使用者に必要時間持続的に接触し情報を抜き取ることさえ出来れば、後は必要時に場所を問わず発動できる。
この魔法の利点は模倣先の相手の外観に加え、性格、口癖、声色、思考などまで真似(トレース)ることができる点だ。
故に解除されるまで、誰も自分を他人だと暴くことは出来ない。
オーメンは手に入れた情報から、ターゲットの居場所へと向かった。生体認証付きの自動ドアを潜(くぐ)り、実験室のような部屋内部の隅に鳥籠の様な牢屋が配置されていた。
設備が整っているため、待遇は比較的良いが、宛(さなが)ら狭い鳥籠で飼われた孤鳥の様だった。
フードを被ったオーメンは白いベットですやすやと寝息を立てる少女を観察した。
暖かな家庭で、何も知らず幸せに温々と育ってきのだろう。――――――そんな印象だった。
ターゲットの目の端に涙が浮かんでいたが、何も感じることはなかった。
時刻は06:50―――――――平日で通学する時の、エミリアの起床時間だ。
―――――――ターゲットの確認は終了。後ほど朝食を運んでくるとしよう。
オーメンが白髮を揺らし、頭を振って部屋を出ようとすると――――――
「…………ん?おねーちゃん……?」
眠たそうな眼を擦りながら此方に話しかけてくるターゲットの姿があった。
数秒間の沈黙。エミリアの脳も通常稼働を始め、一変してしまった自分の日常を思い出したようだ。
「―――――――――あ………。」
口をぱくぱくさせていたターゲットを尻目に、オーメンは退出しようとドアに手を伸ばそうとした。
「――――――あの!ま、待って下さい!」
全く、一体何だというのだ。現在の自分はお前を攫ってきた仇の外見だというのに、命乞いか?逃がして欲しいとでも言うのか?
「………………。」
それならば数日もすれば頃合いを見計らって逃がしてやると、オーメンは心の中で返答し、うんざりして再び扉に手を伸ばした。
「―――――――へ?あの、ちょ、ちょっと!」
無慈悲にも、エミリアの静止を押し切り、扉は黒コートのオーメンを外へと吐き出し閉扉した。
残されたエミリアは独りごちた。
「少し、話ができればと思っただけなのに…………。」
一度睡眠を摂ると、エミリアの心は少し軽くなっていた。
少しずつ、今の環境に順応している気がする。昨日のように此処で泣き崩れていても仕様が無い。
これまでの人生で培った前向き思考を生かし、クレイズが助けに来てくれるその日まで絶望しないと心の中に誓った。
――――――――その日から、エミリアの努力の日々は始まった。