「……て……ちゃ…」
「…きて……ちゃん」
ガシャーーーーーーーーーーーーンッ!
「きゃっ!?」
耳元で鳴り響いた凶悪な衝突音に、掛け布団をカバッと押し上げてクレイズは跳ね起きた。
「もう、起きてよ、お姉ちゃん!」
目の前には学園の白色を基調とした軽やかな制服を纏った少女が佇んでいた。紅色の艶やかな髪は側頭で二つの束に結い上げられ、ある種の幼さと共に学生由来の清涼感を一層引き立てていた。
傷一つ、シミ一つ無く肌理細かなその柔肌には、見る者全てに母の優しさを思い起こさせる気質さえ備わっていた。
少女の清白な細い手にはフライパンとおたまがしっかりと握られている。どうやらあの2つの調理用具を叩き合わせて先ほどの喧しい音を起こしたようだ。
チェック柄の薄手のパジャマを着たまま、半ば強制的に覚醒させられたクレイズは気だるそうな顔で目の前の妹に問を投げる。
「おはよぉ……一体どうしたのよエミリア?」
エミリアは半分呆れたような、ムスッとした表情のまま目の前の姉に向かい本日の予定を再褐する。
「お姉ちゃんは忘れてるのかもしれないけど、今日は学園の創立記念式典でしょ!」
クレイズは長い紅髪を肩からサラサラと流しながら、目を眠たそうに擦り首を傾げた。
「何を言ってるのよ、エミリア?もちろん式典があることは知ってるわよ?ちゃんと昨日アラームもセットし……」
視界の端に、壁に投影されたモニターがいつものようには時間を表示していないことを見つけた。
事此処に至って、ようやくクレイズは目の前の妹が適切な時間に自分を起床させたのだと理解し、同時に壊れたアラームに疑問を抱いた。
「あれっ?最近直したんだけど……また壊れたのね……」
エミリアは少し真剣な顔をして口を開いた。その両眼に篭っていた威圧感は取下げられ、代わりに一抹の不安がその隙間へと入り込んだ。
「お姉ちゃん、朝から学園内の色々な機械が不調をきたしてるらしいの」
「そうなの?なら、私が早起きできないのも、私の責任じゃないわね!」
学園の電気系統セキュリティは確かに十全の筈、それが一斉に不調を来しているため内心少し不安になっていたのだが、ボケっとした態度を一向に崩さない目の前の御人の発言により、そんな感情は直ぐ様水泡に帰した。
もう少し事態を重く受け取って欲しい反面、他人を安心させる事ができるその体裁にエミリアは嬉しくも悲しくもあった。それが自分の姉であるのなら、尚更の事だった。
「はぁ……もういいから早く着替えてね。朝ご飯冷めちゃうよ?今朝はお姉ちゃんが好きなホットケーキなのに!」
温順な朝の日差しの中、制服姿のエミリアがスカートをひらひらと揺らしながら階段をトタトタ降りていくのを見送ると、クレイズは天井へ大きく伸びをしてベットを降りた。
少女の制服に付着していた甘い蜂蜜の匂いが部屋内部に微かに香り、それは起床して間も無いクレイズの胸を十分な多幸感で満たした。
――――――料理なんて、作ろうと思えば今どき十秒あれば自動調理器(オートミーラー)でできるのに……ふふっ、私の妹は本当にできた女の子ね!
クレイズはエミリアの作る心の篭った料理を食べて毎日の生きる力を得ているのだと、改めて心の中に感謝と愛情を深く刻み込んだ。
「くぅ~っ、さぁて、今日も一日頑張りますか!」
クレイズは学園の制服に着替えて、部屋の壁に備え付けられたパネルに右腕の金属製ブレスレット(Universal Associated Device 通称、UADバングル)をかざした。
UADバングルとは、およそ1000年前の科学技術によって開発された集積型情報演算装置(Mass Informational Calculator)の発展系である。演算装置が開発された当初はできることも複雑な四則計算などしかなく、装置自体も凄まじく体積を取り、コストも大幅に掛かる為、科学技術者の間でも早々に開発を打ち切りにされた代物だった。
しかしどういう経緯か、とある一人の富豪魔学者によって埃被っていたところを発見され、その後、魔科学者が数人の仲間と長大な時間と努力を掛けて改良を加えて小型化、多機能化された。
当時その形態は白く、小型化されたとはいえまだ一辺一メートルほどの液晶画面とキーボードという入力装置が付属した四角い箱だった。
これにとある企業が目をつけ商品化し、数十年を費やして人々の間に広め、発展型情報ネット社会をリエニアに定着させてからも、それは改良に改良を重ねられた。
現在の細い腕輪型に至るまでに球体型、カード型、ボード型、アミュレット型など様々な外形を成してきたが、約350年前に思考接続魔法と映像投影魔法が改良され組み込まれてからは現在の型で安定し、それからは外見より機能性が重視され、今日では殆どワンアクションで日々の健康診断から『情報集積庫(アーカイブス)』への情報入出力、特定物質の検知など多様な用途で使われ、人々の生活にとって必要不可欠な携帯機器へと発展を遂げていた。
目の前に三次元映像が投影され、体の健康状態の一切を記したデータが表示された。データの最下部にはいつもどおりの行ってらっしゃいの文字。
Good morning! Klaze,your today's condition is noproblem. Have a good day!
「今日も健康状態検査(スキャニング)に異常なし……か」
クレイズはバングルに触れ、映像を消して足早に一階のリビングへと向かった。
◇◇◇◇
「はい、お姉ちゃんの分!」
クレイズがリビングのテーブルに着くと、白を基調とした制服にエプロン姿のエミリアは、姉と同じ紅色のツインテールを揺らしながら蜂蜜とバターを自分の前に持ってきてくれた。
コトリと自分の前へと差し出された白皿の上には、形の良いふっくらとしたエミリア特製のきつね色に焼き上げられたホットケーキが二枚乗せられていた。
「わぁ……今日も美味しそうね!エミリアは良いお嫁さんになれるわ!」
傍らの妹にそう告げると、エミリアは朗らかに目を細め、頬を少し赤く染めた。そしてニッコリと優しい笑顔を向けてくれる。
「お姉ちゃんがちゃんと一人立ちできるようにならないと、結婚なんてまだまだ先だけどねー」
一度キッチンに戻ったエミリアはココアを入れたコップを二つ持って来て、改めてクレイズの正面の席へと腰を下ろした。
ホットケーキから穏やかに立ち昇る、芳醇な甘い香りが二人の鼻腔をくすぐる。どうやら本日の朝食のできは上々のようだ。
朝食の準備が全て整うと、二人の瞳は自然と互いを捉え、微笑みながら一緒に頷く。
「「いただきまーす!」」
フォークで一口大に切り分け、ケーキの中央に乗った蜂蜜とバターを少し付けて口元へと運ぶ。
途端に、柔らかな感触と甘い味わいが口の中に広がり、急激な唾液の分泌促進により下奥歯の辺りがギュッと痛くなった。
「エミリア、また腕を上げたわねぇ?……こんな美味しいホットケーキは今まで食べたことがないもの!こんな妹を持って本当に、お姉ちゃん冥利に尽きるわ!」
「えへへっ、実はベーキングパウダーから自作してみたの!お姉ちゃんはもっと柔らかいホットケーキが好きだと思ったから」
「もう私、エミリアが居ないと生きていけないかもしれないわ……さっきはあんなコト言ったけど、誰のとこにもエミリアを嫁になんて行かせないわ!私の嫁になりなさいよぉ……ダメ?」
それを聞いて、少し困った笑顔になる愛妹。
「うーん、それはそれで困るんだけどなー」
その言葉に何かを感じ取ったのか、クレイズは少し悪戯めいた笑みを見せる。
「なになに~?もしかして誰か気になる男の子でも居るの?お姉ちゃんに教えてみなさい!何かアドバイスできるかもしれないわよ?」
エミリアはテーブル越しに前のめりになってきた姉の額をデコピンして押し返した。
「居ないよ、そんな人……今はお姉ちゃんのお世話だけでも忙しいのに、他の人のことなんて考えられないもの……はむっ。あ、美味しい!」
ホットケーキを一欠片口に運び、思わず両手のひらを両頬に当てて目を細めるエミリア。
それは自分だけではなく、周囲の者にまで巻き込んで幸せにできそうなほど、一片の穢れも含まれない笑顔だった。
その笑顔を視界に収めると、クレイズは居ても立ってもいられず、何かを決心したようにいきなり椅子から腰を上げ、テーブルを半周してエミリアに背中から抱き付いた。
紅色の赤髪がさらっと舞い、クレイズはエミリアにスリスリと優しく頬擦りした。
「ふえ、ふえぇ!?ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」
エミリアが目を見開き、背後の姉を引き離そうと身を捩(よじ)り身体を押し返そうとするがそれはかなわない。
「あぁ~ん、もうほんとにエミリア可愛過ぎよ!もうずっと離さないからね!エミリアっ!」
「ちょっとお姉ちゃん、ココアこぼれちゃうって!一旦離して、く、くすぐったいよぅ」
姉妹の紅く美しい長髪がサラサラと、猫がじゃれ合うように揺れ踊る。
「ふふっ、またそんなこと言って~。昨日も夜中に枕を両手で抱いて涙目で、『お姉ちゃん……一緒に寝ていい?』って私の部屋に来たくせに!あの時のエミリア、寝た後もずっと私のパジャマの裾をつまんだままで、少し泣きそうな……でもとっても幸せな顔しちゃって、ほんと、私がエミリアを押し倒そうとする欲求に抗うために、一体どれだけの苦労をしたか……」
クレイズは昨晩に妹が自室に尋ねてきた時のことを思い浮かべた。エミリアは髪を解いており、二人で向い合い一つのベッドで眠ると、その光景は仲のいい双子が眠っているかのようだった。
途端に、エミリアの顔が真っ赤になる。そして少し拗ねたような顔になって、
「ちょ、ちょっと!お姉ちゃん、き、昨日はちょっと怖い夢を見たのよ……いいでしょ……時々ぐらい、少しくらい甘えたって……。」
クレイズは一瞬キョトンとして、目を俯(うつむ)かせ気恥ずかしそうにそわそわしているエミリアを見た。
『ヤバイ、この娘、可愛すぎるわ……』
これ以上何かやってしまうと姉妹同士のスキンシップを超過してしまう可能性があるため『もっと甘えたっていいのよ。だって、私はエミリアのお姉ちゃんだもの……』と優しく呟いて最後に一度強く、ギュッと抱きしめた後、さすがにここらへんで止めておいた。
実を言うとクレイズは昨晩、何故エミリアがいきなり自分の寝室をノックしたのか分かっていた。
これは二人にとって姉であり、母代わりでもあったセラが死んでしまってからというもの、月に一回ほどの頻度で起こる発作みたいなモノだ。
エミリアとクレイズとセラはいつも3人一緒だった。本当の家族のように笑い合っていた。しかし……その内の一人を突然の不幸によって失い、心の奥底に癒えない傷を負ってしまった。
だからその時のことを今でも引き摺っていて、我慢してはまた後悔して、自分の内に押し留めて……それでも彼女の心の容量では耐え切れなくなった時に、そっと、一番頼れる姉の寝室を尋ねるのだ。
そんな妹の振る舞いを見て、クレイズは切実に想う。
『もうエミリアを悲しませない、絶対に。あらゆる困難から彼女を遠避け、楯となり、守り続けてみせる』
その決意を胸にクレイズは再び席に着いた。窓辺からは和やかな日差しが差し込んでおり、二人は朝食を再開した。
「ふぅ……学校では、ああいうことやめてよね?さっきみたいなこと……」
「ええ、分かってるわよ!ちゃんとTPOは弁えてるつもりだけど?」
「なら……いいけど。す、少しくらいならね……。『私も……もっとお姉ちゃんと一緒に居たいし……』」
二人は冷める前に、パクパクとホットケーキを早々と口に運んだ。
「ん?エミリア、なんて言ったの?」
「な、なんでもないよ!学園に遅れるから、は、早くココア飲んじゃってね!」
エミリアは早々と食器を片づけてキッチンに入ってしまった。
クレイズは最後の一欠片を大切に味わいながら舌鼓を打った後、甘いココアで朝食の最後を彩った。