第一章 Every man desires to live long but no man would be old.
〔人は誰しも長く生きたいと願う。しかし誰一人として年老いたがらない〕
「緊急警報発令、緊急警報発令」
鼓膜を深く刺すサイレンの喧騒と共に、天井に取り付けられた警報ランプが明滅し、周囲を煌々と赤黒く照らす。
その時、私はランプが放つ橙赤光が目に染みて、状況を理解できなかった。
否、理解する必要性すら無いと、勝手に決め込んでいた。
初めて触れた硬質な床はとても冷たく、容易に私の頬から体温を奪っていった。
このまま、私はどうなるのだろう……そう考える事さえ無駄と気付き、これで思考を閉ざそうと、最期に恨み事を呟いた。
「どうせ……死ぬまで生きるだけ…………」
……そう思っていたはず、なのに――――――
瞬間、バチリと脳内に鋭い火花が散った。初めての感覚に、これが「痛み」であることすら、この時は気付けなかった。
目の前の綺麗な蒼い髪の女性は、私に平手打ちを刳れてこう言ってきた。
「生まれる場所は選べないかもしれない。でも、生き方と死に場所くらい、自分で見つけてみせなさいっ!」
彼女は私ともう一人の少女を「水槽」から出した後、外の世界へと連れ出し、さらには居場所をくれた。
その時の記憶は色褪せながらも私の胸の中に、朧気(おぼろげ)では在るが、まだ微かに燻っていた。
―――――あれからの八年間は、本当に幸せだった。
―――――もし、あのまま、幸福な日々がずっと続いていれば――――――…………
◇◇◇◇
光源の悉くが喪われた陰湿な闇の中、時折何処かで、ポタリと液滴が零れ落ちる。
粘性を纏った水音がリノリウム張りの床面を駆け抜け、暗室の奥底に谺(こだま)する。
まるで内包した悪性を隠匿するかのように、撒かれた消毒液の残香は鼻を衝き、所狭しと並んだ分析機器の間隙に滞留し、少しずつ換気口の喉奥へ嚥下されてゆく。
「隔離室」と銘打たれたその一室は、さながら研究室を思わせるような内観であった。
時刻は既に深夜三時過ぎ。普段であればこの場に足を運ぶ者などいるべくもない。
だが常態化した暗闇の中に、コツリ、コツリと無骨な音が不等間隔に響き渡る。
強かに床を打つ足音は、壁を這いずるような擦過音を伴いながら、ゆっくりと静謐を侵食してゆく。
「グ……グォ…………」
その姿を一言で言い表すならば―――――骸骨だった。
皮膚や肉の類は見当たらない。骨格全体はボロボロのローブで覆われ、繋がった関節が辛うじて人体の輪郭を留めていた。
骸骨は自らの醜態を見下ろし、嘗て人であった頃の記憶を思い起こそうとする。
だが、既に思考や感情……或いは本能までも、その殆どが今や喪われつつ在った。
自分をこの醜い姿に変えた者への怒りや憎しみさえも、最早湧き出ることはない。
ただ、自分のすべきことは解っていた。プログラムに支配された傀儡のように、ただ一つの目的に向かって歩み続ける。
遮蔽物を排除して進む必要はない。自身の進行を阻む前に、眼前のドアは全て緑の灯光を放ち、自動で開口された。
冷たい外気が隔離室の内へと流れ込み、褪せた外套がはためく。
屋外への出口まで解除されたというのに、現状、異常を検知している機器は一つとして存在しない。
何かに導かれるように、骸(むくろ)は終わりの見えない虚無へと誘引されてゆく。
冷風が三度(みたび)、解(ほつ)れたローブを大仰に煽る。
汚染された行動原理は、自身の動力源となる高濃度の霊体を求める。
より多くの命を狩りその魂を集めるため、開け放たれた自動ドアをくぐり、骸骨はほろ暗い深淵へと己の躰を埋没させていった。
―――その光景を、遠方から覗く者がいた。
男は監視システムを介し、実験体の逃走を把握しながらも、ただ漫然と傍観を続けた。
慌てる様相は一切見受けられない。そしてまた、新たに一体の実験体が逃走を図り、隔離室からゆっくりと出ていこうとしていた。
ソレは固有外形を持ち合わせず、ゼラチン質の体表を流動させながら床面を舐めあげるように移動する。
一見するとそれは、黒色を呈したアメーバのようであった。
ほとんど痕跡を残すことなく、奇怪な生物は骸に続き、何処へとも知れない野外に解き放たれていった。
間もなく隔離室から屋外までの自動ドアが閉まり、何事もなかったかのように施設内は静寂を取り戻す。
陰湿な闇の内で、男は一人、祈るように呟く。
「これでようやく、始まるんだな……カレン……お前にはこれから本当に、世話になる……」
その声は静かに近傍の壁へと谺(こだま)し、偏在する冷気へと溶けていった。
―――闘争の種は撒かれ始めた。
絶望の火にくべられる犠牲者達の禍根を辿り、役者達は須らくここに辿り着くだろう。
そうでなくては困る。そうでなければこの世界(リエニア)は、遠くない未来に根底から破綻し、蔓延る生物種はその全てが滅びゆくことになる。
この大地に根を張りその生を謳歌する人々は、これから起こる事態のその一端さえ、知る由もなかった。