「これから何かを手に入れるということは、これから何かを失うということ」
「既に何かを手に入れているということは、既に何かを失っているということ」
この世界にある物事の悉(ことごと)くは、このような差し引きの上で成り立っている。
欲しかったり、やりたいことと、そのために失うことを両天秤にかけて、自分にとって価値が大きい方を選び取ればいい。
欲しかったり、やりたいことの方が比重が大きければ、手に入れればいい。やればいい。
価値観や幸福感は、その時その時の状況や考え方によって異なる。
若い時に欲しかったものは、老いた後に欲しいとは思わないかもしれない。逆もまた同様にありえる。
様々な本を読んでいると、以下のことが書かれていることが多い。
「人生は壮大な暇つぶしだ。何をやっても、何をやらなくてもいい。」
生とは、生まれた瞬間に、ふとどこからか落ちてきた奇跡的な資源(リソース)の塊。可能性の塊。
私達は限られたそのリソースを何かと交換しながら、日々、生きている。
人生において大きなカテゴリーとして重要なものの代表例は、時間や体力(エネルギー)など。
それらを切り売りしながら、私達は他のモノを必要に応じて得ている。
思い出や幸福やお金などが、その最たる例といえる。
人生の資源をどれぐらいの相場で何かと交換しているのかは、その人によって異なる。
自分が払った人生の資源の価値と、手に入れたモノの価値はその人にしか分からないので、その人がどれほどの効率で物々交換を行っているのかは、誰にも分からない。
そんな人生の物々交換において、どれほど高い効率を求めるかどうかも、人それぞれ。
世の中には誰かと比べて、一見効率が悪いと見られたとしても、その人にとってはとても大切で、十分な幸福を得られている場合も多々ある。
それはその人の「幸福の感覚器」が鋭敏になっているから。
たとえば、小さな人生の資源を払って、「小さな結果」を得られたとする。
その「小さな結果」をとても大きなものとして、自身の心身で味わうことが出来たとしたら、それはもう「小さな結果」ではなく、「大きな結果」を得たと言える。
つまり、自身のもつ、「あらゆる物事に対する感覚器」を鋭敏にしていくことが、人生を豊かにするコツであり、ある意味、人生の物々交換における最大の効率化である。
お金を得ることや、時間を残すことに対して、感覚器を研ぎ澄ませるのもいい。
人生の物々交換をすることに価値を見出しているのなら、交換して、何かを得たほうがいい。
人生の物々交換をしないことに価値を見出しているのなら、交換しないで、何かを残したほうがいい。
価値観は人それぞれなので、前述の
「人生は壮大な暇つぶしだ。何をやっても、何をやらなくてもいい。」
という、幸福追求論が成り立つのだと思う。
何かをやるという選択、何かをやらないという選択。それができるのも、自分の人生あってこそ。
人が生きていく上では、やはり、何かを失いながら、何かを得ていくことになる。
自分がこれまで得てきたものは、これまで自分が欲しかったものであり、今自分の周りの人間関係や自身の経験を顧みて、簡単に確認することが出来る。
価値観はその時ごとに異なるが、過去のそんな取引があって、今の自分がいる。自分の生活がある。
もっと自分が積み上げたものに対して、胸を張っていいと思う。
私達は人間なので、時折、嫌なことがあって憂鬱(ゆううつ)になるときもあると思う。
でも、私達が積み上げてきたものは、いつも確かに、私達のすぐそばにある。
全ての物事には二面性があるので、見方によって、良いこととも悪いこととも捉えることができる。
それは自分の考え方次第。
世の中には事故に遭ったり、がんなどの病気にかかったりする人もいるが、考え方次第で「人生の価値観が変わる転機となった」など、その出来事をよかったことにする人もいる。
勿論病気になってすぐには無理かもしれないけれど、いつかそんな風に、自分の中に落とし込めたら、その人はとても幸せになれると思う。
つまりは、物事に対する感覚器を改善し、物事の味わい方を改善したともいえる。
なので、今、お金がなかったり、知識量が足りないという理由で、他人を幸せじゃないだとか、人生の価値や方向性が間違っているとレッテルを貼るのはオススメしない。
様々な要因によって、そのような状況でも幸福に包まれることは出来る。
自分に起こったことや取り巻いている環境を、全て幸福に変える(コンバートする)方法は、工夫次第で誰でも、どんな状況でもできるのだから。
つまり結局のところ、幸福とは自分の周囲にある物事からもたらされるものではなく、自分の内面によってもたらされるもの。
つまり、いつも私達の頭の中で生み出せるものだということ。
だから、あらゆる物事への考え方を変えることが、幸福になるための唯一にして、最大の、誰にでも拓かれた道だといえる。
井戸の中しか知らないカエルであっても、大海原を知っているカエルであっても、その時のその状況で幸せになれないなんてことはない。
他人から見れば、どんなに不幸に見える状況の中でも、私たちは幸せになれる。
その人が感じている幸福は、その人が満足と感じられれば、十分に満足に足るものである。
だから、ただ、幸せであればいい。
私達は、幸せになるために、生まれてきたのだから。
人生の目的は、たった一つ、幸せになること。
時々しょぼくれたっていい。こけてもいい。それでもまた、もう一度立ち上がって、前を向いて。
多く物事に囲まれながら、多くの時間、できるだけ幸せでいつづけよう。
――――――私達は今、幸せですか?